Brionglóid
禍つ宮
巫女の弔い
02
目が醒めて、そのことにうんざりする。いったい何度目のことだろう。
『ここ』に来る直前までは、自分でもまさに死の淵にでも立っているような心境で、気丈に振舞いつつも内心では恐怖に怯え焦っていた。
明日、今夜、或いは一瞬後には……と、今思えば滑稽なほどに。それなのに。
今日はいったい何日なの……?
何度か発作に見舞われたものの、永遠の眠りとはそう簡単には訪れないものらしい。こうして目覚めるのも一度や二度ではなかった。
気がつけばそこは、あの世ではなく相変わらず苔で覆われた、暗く湿った岩窟の中。
身体を起こしてみると、発作の疲労が残っていて気だるく、硬い岩場で眠り続けた為に節々が悲鳴をあげた。だが肝心の、胸を突き刺すような痛みは消えていたので、まあ良しとすべきだろう。体調不良のせいか空腹は感じなかったが、喉の渇きが微かにあった。
更に肌寒さを感じて、彩音は己を抱くように腕を回した。身に纏うのは白装束一枚。死衣装だ。
この岩窟は陸と海と、入り口が二つあり、今は大きく開けた海の方からもそれ程光が入ってきてはいない。夕方を過ぎているか、悪天候か。岩窟にはまだそれほど水が届いていなかったから、恐らく後者だろうと思われた。
里の方角から、鎮魂の鈴の音が聞こえてくる。かすかに、聞きなれた声も。
彩音は渇きと寒さから意識を逸らすため、ぼんやりとそれを聞きながら、少し笑った。
大事な妹が、自分を送る言霊を紡いでいる。芯のある声音が時折震えて、彼女が悲しんでくれているのが分かる。
『自分は一人ではないのだ』と。それを、ちゃんと確認してから眠れるなんて、考えようによっては結構幸せかもしれない。
そう。ただ穴を掘って土をかけられた母の死に様に比べれば。
里の巫女の筆頭である斎女自らが先頭に立ち、葬儀を執り行ってくれているのだ。マシどころか勿体無いくらいだろう。
忌が明けるまで、神官や巫女達はああやって毎日鈴を鳴らし続ける。自分なんかの為に。
大事な斎女の、姉だから。
ただそれだけのことで、死に様までがこんなにも違う。皮肉な話だ。
彩音は、不治の病にかかっていた。気がついたときには、身体の内側を粗方やられていた。
いずれは明るみに出る事だと分かっていたが、流行り病でもないのに、まさかこうして岩場に繋がれて死期を迎えることになろうとは。自分がここにいることを知るのは、お社でも一握りの人間だけだ。その中には美波も入っていない。
彩音は既にこの世を去ったことになっている。今聞こえているのは、それゆえの鎮魂の儀。
どうせ近いうちにそうなるのは必至なので、後に来ようが前に来ようが変わらないと、褪めた気持ちで彩音はこの奇妙な待遇を受け入れた。
――あとは、実際に死が訪れるのを待つばかり。おそらくそんなに遠い未来ではないはずだわ。
最初は、そう思っていた。しかし、来るべき死は未だ訪れず、段々焦りと恐れが膨らんでいった。
自分の選択は正しかったのだろうか。
巫女として認められなくとも、家族に看取られて眠りについた母と、斎女の姉として誰の目にも着かない場所でひっそりと死に行く自分。発作の痛みに耐えかね、苦しみのたうつ姿を美波に見られたくないというあの時の気持ちと、迫り来る死の恐怖に誰でも良いから側にいてくれと泣き叫びたい今の気持ち。
誰だっていつかは死ぬんだと、悟った気になっていたあの頃と、その未知の世界が現実のものになろうとしている、今。
自分は母より「幸せな死」を送ろうとしているのか。本当に?
もしあの時、この処遇に頷いていなかったら。今味わっているような気持ちにはならなかったろうか。醜くとも、たった一人の妹に看取られて迎える平凡な死の時。
腐るほど余っている時間が、その『余った時間』についてあれやこれやと想像を巡らせることに繋がった。他にすることもないから尚更だ。延々と続く、もしかしたら出口のない回廊かもしれないのに、彩音の思考はその回廊の奥深くまで立ち入ってしまう。
様々な考えが、浮かんでは消えていく。
死って何だ。肉体が活動停止すること? では、この思考は何処に行く。物を考え、妹を思い体験したことのない死に怯える、この自分は。
なくなってしまうのだろうか。欠片も残らず。
本当になくなってしまうのであれば、怯えるだけ無駄だ。その瞬間、全てが無に帰してしまうのなら。
この岩場はある意味異界だ。暗く閉ざされた空間に未来は見えない。心は導いてくれる光を求め、眩しかった過去ばかり何度も何度も思い返す。そうしていくうち、一番確かなはずの『現在』すら何だか不確かなものに思えてきて、気が狂いそうになる。
死者の魂を慰めるという鎮魂の鈴の音が、生者である彩音の心をも慰めた。
鈴の音と美波の声が、現実を彩音に伝えてくれた。岩窟の外に広がるこの世と、異界であるこの暗い空間が繋がっているのだと、知らせてくれた。
死の現実は変わらないし、怯えが払拭されたわけでもない。だが、その砂粒ひとつ程度の事実が、彩音を狂気から守っていたのだった。
それはあまりにも、儚く頼りない鎖ではあったけれど……。